1932年に書かれた本。
この本に描かれているディストピアは全くのファンタジーとは思えない。
幸福とは何か、自由とは何かを考えさせられる。
ソーマという名前の麻薬で強制的に不安感を消す事。
争いも老いも病気も失恋も嫉妬もない。
強制的に多胎児を増やし、意図的に知能や能力を落としたものに単純作業をさせる。
しかしこのカーストの低い者たちは不幸と言えるのか。
より上のカーストの考えることができる人間たちの状態を想像することもできない。
劣っていることに悩むことすらできない。
この世界では一番上のカーストの者ですら意図的にある範囲の決められた構造の中に閉じ込められた壜の中の胎児である。
プロパガンダが横行している。
というか当然になっている。
これは今私たちが過ごす現実でも言えるのでは?
ただSNSが当たり前になって変わりつつあるような、ないような。
真実について沈黙すること。
効率的なプロパガンダ。
これは現代の世界ともリンクするのではないか。
肉体的な操作はされていないとはいえ、
今の私たちはシステムによる洗脳を受けていないと言えるのか。
無神経な人たちは、“考えられる人たち”が悩みに悩んで自ら死を選ぶ事を理解できるのか。
資本主義がもたらすのは幸福なのか。
自由主義がもたらすのは幸福なのか。
家族、母親、父親、兄妹、恋人
これらは悩みを生むことは間違いない。
しかし無くていいとは言えないはず。
世界のあり方について、
構造に囚われずに考えていく必要はないのか。
自分たちの贅沢という名の正義のためには、
他者をだましたり戦争したりするのは黙認されていいのか。
裁きの基準となる法は、
社会を構成する人間たちによって定められる。
神ではない。
産業文明は禁欲しないことで初めて可能になる。
産業革命が起こり、中央集権化が進んだのか。
各国政府が全体主義的になる。
権力を分散して自助を推進しようとする大規模な大衆運動だけが現在の国家主義への傾斜をとめることができるがそのような気配はない。
『幸福の問題』とは、
どうやって人々に隷属を愛させるかという問題だ。
危険なのは科学そのものでは無く、
操作する人間と体制にあることは明確である。
ディストピア系のSFは、
哲学とか社会学がテーマになりがちで
実は他のジャンルより現実にダメージがある。
と私は思うのです。